ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) MONTHLY REPORT 2008.03

3月ですな。徐々にだけど暦は春に近づいてるね。でも札幌はまだまだ寒いよ。そうそう、今月は長いよ。

正月にも話していたけれど、TBHRの進む道。これがやっと、ぼんやりだけど見えてきてる。多くの親切な誘い、オファーをあれからも多数受けた
けれど(本当にありがとうございます)、やはり自分等でやる。やってみる。そう決めた。流通に関しては今まで通り力を借りつつ、出来る限り
自分等でやっていく。これまでの様にスムーズなリリース、流通は最初は出来なくなるかもしれないけれど、まだ諦めないでやってみる。この時期、
この逆境を乗り越えれば、何か得るものは必ずある。だからやってみる。

もうとっくに動き出してる。やるべきことは多々ある。今も、今までも、これからもステージで、スタジオで、そして無数の素晴らしい音楽がひしめく
広大な世界の果て、ここ札幌で自分等の信じる音楽を無から創り、それを皆の心に届けるんだ。そういう大きな、大きな闘いはもう何年も前に始まってる。
これは継続性、連続性を伴うものだ。高い緊張感を何時も強いられる。たった一人の行き場のないDISをも同時に相手してなんて器用なことはできねえ。

ま、それについては後で話す。

そんなことよりビジネスだ。話を進めよう。

来月から新しい企画を始めてみます。TBHRから初となるミックスCDをリリースします。「SEASONAL BEST」と名付けられたこのCDはタイトルの
通りに春、夏、秋、冬の4回シリーズです。4月、7月、10月、12月を現時点では予定しています。DJは、もちろんDJ DYE(THA BLUE HERB)。
記念すべき第1回作品「SEASONAL BEST:SPRING」は4月15日店頭発売(予定)。それに先立って、4/1から4/10まで先行で、ここで通販で
発売します。当ウェブ限定で、TBHRのステッカー付けます。奮ってご注文お待ちしてます。宜しくお願いします。

2月は2回レコーディングしてきました。この2回は両者全く動機、内容、趣の違うものとなった。1つは仕事、そしてもう1つは仕事抜きの場面。
前者は終わってみれば、単なる仕事を通り越した素晴らしい時間を過ごさせてくれた。そして後者は今も俺を、俺の決断を迷わせようとする。両者とも
今や、俺が表現する、俺に関わる、俺の音楽というものが、単なる遊びではない事を意味している。金、メンツ、そして良くも悪くも絡んでくる人々。

1つ目のレコーディング。場所は横浜。快晴。天晴。相手は山仁という名のMC。彼のアルバムの1曲に参加させてもらった。極上のビートはSHAFTT。
二人ともレペゼン町田の男達。俺にとって山仁というそのMCの名前、そして彼の地元、町田という地名はもうずっとずっと前から忘れられないもの
だったんだ。あれはもうずっと昔の事、自分等のレーベルを立ち上げるよりも前、1995、6年だったと思う。珍しく東京に遊びに行った俺等が
迷い込んだ、ただマイク握らせてくれるってだけの名前も知らない六本木の小さなクラブで、山仁はマイクを先に握って、そこにいた。あの巨大な街の
どん底にギラギラした目で立ってた。ほんの短い時間だったが、俺等も一緒になってマイクを回し、今思うと俺自身、初めて東京のMCと接触した瞬間
だったかも知れない。とにかく良い時間だったのは今でも憶えてる。そこにはO.N.O、シュレンもいた。タイソンもいたし、フリーザーベルもいた。
それから俺はTHA BLUE HERBを、そして山仁はソロで、そしてループジャンクションというユニットでマイクを握っていた。多くても年に2、3回、
何気なく電話で話したり、どっか現場で会ったりしながらも、やがて顔をあわせることも少なくなっていった。俺も毎日の忙しさに飲み込まれ、いつしか
山仁の名は忘れはしないものの、果たして彼が今どこで、何をやってんのか全く知らない時間が何年も続いた。

そんなある日、去年の暮れ、真夜中、山仁からオファーが届いた。ソロでアルバムを出せるディールがやっと見つかったんでお前の力を貸して欲しいと。
俺は、山仁がまだMCを続けていた事、そして俺を憶えていてくれた事にまず感動した。しかしはっきり言ってオファーにはいまいち気が乗らなかった。
理由はどんな事を歌ってんのか、いつ出んのか、これは仕事なのか、遊びなのか、何も分からなかったから。で、そう伝えた。山仁は何度も、メールや
電話で俺に説明してくれた。そしてどういう気持ちなのか、俺にはしっかり伝わった。だから受ける事にした。そして実際作業が始まっていったが、
曲のコンセプト、形態、ビートの選択、意見の相違は最初多々あった。その度に俺達は意見を戦わせ、ぶつけ合い、譲り合いながら、お互いが持つ完成の
イメージへと近づけていった。そして昨日、晴れてレコーディング。スタジオで久々に会った山仁は、何にも変わっちゃいなかった。俺等は速攻笑い、
とにかく良い感じで笑い、話し、ふざけ、笑い合った。最高の雰囲気だった。曲なんてあっという間に出来上がってた。スタジオで起こるマジックも
山程出てきた。あの頃、俺と山仁が最初に会った頃、そう、まだ皆が生きてたあの頃。先は見えていなかったけど、先は確実にあると信じていた頃。
俺等は、誰もあの頃に戻る事はもう出来ないけれど、出来上がった曲には、あの頃の俺等の若さ、輝きがはっきりと感じられる。そんな曲になった。

特別な出会いはもう1つ残っていた。今回の山仁のプロジェクトを進めていたのはLIBRA RECORD。そう、ご存知、東京アンダーグラウンドの雄、
MSCはもちろんの事、ハードなMCが多数所属してるレペゼン新宿のレーベル。レコーディングが終わった後、皆で新宿に行って旨い鉄板焼を喰い、
多いに話した。漢やタブー、ギネスを始め沢山の野郎共が集まって多いに飲んだ。皆、熱く、ふざけもするし、笑いも好きで、楽しい時間だった。

最近、寂しいことがあったから、より一層そう感じたのかも知れないけれど、本当に誰にも気を使わず、安心して、心からリラックスして酒を飲んだ。
山仁!ありがとう。マジで良い時間だったよ。人柄、そう、お前の詩には人柄がよく出てる。10年前から変わらない、前向きで陽気で、ちょっと調子が
良くて、嘘のないお前の人柄が、だ。そんなラップを聴かせるMCはそうはいねえ。着飾った、堅苦しいMCには10年かかる境地だ。ばっちりだぜ。
これから忙しくなるが、そのヤマを乗り越え、また互い成長して会えることを楽しみにしてる。そして社長!楽しかったです!ごちそうさんでしたっ!


さて・・・。

この話はしたかねえけど、言わねえわけにはいかねえ。例のBIG JOEが俺をDISした件について。この話は大半が俺自身、個人的な話でもあるし、俺は
これをエンターテイメントにする気もない。まして俺はゴチャゴチャ後々まで引っ張るような真似は好かない。だから日が経ったらノリで削除する。

勃発以来、ヤツからは何の連絡もない。俺から連絡する事は出来ない状況だ。あれこれ憶測が流れてる中、何もなかったって事にはできねえ。

知らない人もいるかもしれないんで、順を追って最初の最初から説明すると、HIP HOPにはDISという慣習みたいなもんがあるんだ。これはそもそも
HIP HOPそのものが、既存の社会や階層に対するカウンター的な意味合いで発生してきてからずっと側にある。ま、わかりやすく言うとだな、自分の
スタイルを押し通すために相手のスタイルを削るって感じかな。ダンサーは自らのステップで、DJはスクラッチで、って感じ。で、MCは、と言うと
やはり言葉ってことになる。「バトル」や「スタイルウォーズ」って言葉がある様に、HIP HOPの歴史上には幾度となく繰り広げられてきた悪しき、
そして愛すべき慣習だ。これはHIP HOPそのものに、そもそも興味がない人から見たら「なんだそりゃ?ただの音楽だろ?なんでいちいち争うの?」
って思うだろうし、思われてもしょうがないとも思う。でも俺等が生きてるHIP HOPの世界ではこの争いってやつは決してネガティブなものだけでは
終わってはいないんだよ。やはりぶつけ合う事によって、淘汰される何かもあるけれども、同時にそこから産まれる何かはあるんだ。破壊と再生やね。

ただ、ルールってもんがある。それがないと何でもありになっちまう。ルールがあるんだよ。それも暗黙の。

そのルールってのは、人間として行き方のルールに立脚している。もちろんくだらん法律とかじゃなくて、都会でも田舎でも、アメリカでも日本でも、
底がどこでも変わらない、人間としての行き方のルールだ。「嘘は良くねえ」って事みたいな、単純な、誰でも知ってる人間としての行き方のルールだ。

皆が知ってる通り、俺も多くのMCを削ってここまで上がってきた。だから俺を乗り越えて上がって行きたいMCが俺を削る事も理解出来る。実際に
多くのMCに削られてきた。そこから俺が何を学んだかは「LIFE STORY」の3曲目「D.I.S.」で話してる。はっきり言って殆どのDISはただの悪口で、
俺は捨て置いてきた。相手にはしようとすら思わなかった。ただ1つTOKONA-Xとの一件を除いては。これについては下で触れる。とにかくいちいち
答えようとはしなかった。相手にならねえ、くだらねえとしか思えなかった。放っておいた。わかる?言わせて余裕ってやつよ。

ただ今回は違う。これは俺や仲間達の尊厳、名誉、誇りに直結する問題だ。しっかり話さなくてはならない。

俺と、今回俺をDISしたBIG JOEとの間には長い歴史がある。お互い同じ札幌を拠点としていたし、俺が何度も言っている通り、俺はヤツのラップで
初めて日本語のラップに触れた。長い時間、よく話したし、笑い合ったもんだ。俺はO.N.Oと組んでTHA BLUE HERBを始め、ヤツはヤツで仲間を
見つけマイクジャックプロダクションを始めた。俺はずっと純粋にこう思っていた。お互いに切磋琢磨して、スタイルをぶつけ合ってレベルを上げて
いければ最高だ、と。たまたま俺等の方が先にレーベルを立ち上げていたし、ビジネスを始めていたから、後でヤツがこのビジネスに足を踏み入れる
時には多いに喜んだ。聞かれた事には全て答えた。早く同じ場所で音を鳴らしたかった。今思うといい時間だった。その後あいつはオーストラリアで
訳あって捕まって、長い懲役を課せられた。札幌があの日、どれだけ絶望の淵に落とされたか俺は憶えてる。だがそこは終わりなんかじゃなかった。

その後のJOEとマイクジャックプロダクションの頑張りは皆が知っている事と思う。彼等は諦めずに、音楽を創り、発表してきた。

ヤツが獄中から発するメッセージを俺や俺等は心から信じていた。そのメッセージはとても前向きで、愛に溢れ、希望に満ちたものだった。

俺も、俺等の仲間も、音楽やってるやつも、そうじゃないやつも皆、心からヤツの力になりたいと思っていたし、実際そう行動してきた。長い間、俺は
札幌に生きていて、ここまで皆が一人の為に、自分の力を捧げる光景は見た事がなかった。あの1番最初の署名をした夜から、ずっと絶やされる事なく
皆、JOEの事を想ってきた。誰も、もちろん俺自身も見返りなんて望んじゃいなかった。本当に、本当に純粋な気持ちだった。「もう少しであいつが
帰ってくるな〜。」「楽しみだな。」「空港に行く?」「当然!行こうぜ!」「あいつも帰ったら忙しくなるな!」皆が、楽しみに待っていた・・・。

寝耳にDISとはまさにこの事だ。突然、ヤツが発してきたメッセージに最初に触れた時、俺は俺の身に何が起こったのかすぐには理解出来なかった。
なぜ、そして何について言っているのかが解らなかった。俺は自分の行為を振り返ってみた。これまで何年にも渡ってヤツを思って為された行動には
一点の曇りもない。「・・・してやったのに」とも思わない。そういうレベルの話ではないんだ。これは人間として、友人として行った事だからだ。

「仲間が困ってりゃ助ける。」それだけのシンプルな問題だ。1B-BOYとして揺るぎない信念に基づいて行った事だ。恥ずべき点などはどこにもない。

心当たりと言えば、去年の秋、ヤツにヤツのアルバムに参加を求められていた。でもヤツが送ってきたデモCDを聴いて、俺ははっきり言って自分の
気持ちが盛り上がらなかった。だから俺はそう手紙に書いた。たしか「もっと札幌の若いやつらに未来を提示出来る様な曲をやりたいんだ。」って
感じだったと思う。その後今回の一件までの3、4ヶ月何の返答も、電話もなかった。俺は心のどこかで覚えてはいたけど、なくなったんだなって
思っていた。上で書いた山仁とのレコーディングでも言ってるけど、俺は俺以外の人間と曲を書く時には、本当に慎重だ。せっかくだから、そうは
ない事だから、後悔を残したくはないから、徹底的に話し合う。悪気なくだぜ、兄弟。俺はクライアントに言われた通りに動く都合の良いラップ製造
マシーンじゃない。一人の人間だ。そして人間と人間の間で鳴る音楽を信じてる。今までもずっと、どんな相手でも曲を作る時、相手のやりたい事と
自分のやりたい事をぶつけあってきた。そうやってその摩擦から発する熱で音楽を創ってきた。JOEは上の文を読めば解ると思うけど、俺にとっては
特別なMCだったんだ。だから究極の1曲を、誰をも驚かす、クラシックを創りたいと、当然の様に思っていた。だから俺は当然の様にそう伝えた。

その回答があのDISだったとしたら・・・・・、本当に残念だ。

心当たりはもう1つ。マイクジャックの他のMC達と一緒に1曲を創るって話。そして今年の冬に予定していた、THA BLUE HERBとマイクジャックの
ライブツアーの話。俺の「後輩」にすり寄ってる、そうヤツは言ってた。なあJOE、俺はお前の大切な「仲間」にはすり寄っちゃいねえよ。安心しな。
友人としてだ、一緒にツアーしたらオモロいなってとこから出た話だ。オマエが帰ってくる前に、デカイ箱回って、もう1度名前を売ってだ、その後
JOEの帰国に合わせてのツアーのためにここらで実力と経験を積んどけばいいんじゃね?って話だ。未来を見ながら、そう話してたんだ。ただそれだけ。

上記の2つの理由で、俺等の大切なオーディエンスをオタクと呼び捨てる。そして俺が一緒に音楽を分かち合っている友人達をオカマと呼ぶ。残念だ。
誰の事を言ってるんだ?あのプレシャスホールのダンスフロアーで、自分の心の解放のために踊っている、あの素晴らしい人達のことを言ってるのか?
少なくとも俺の知る限り、俺を含め、俺の周りには同性愛者はいない。だが仮に、いたとしても、俺はこう思う、その人の勝手だよ、いいじゃねえか。

俺がTOKONA-Xにわびを入れたとも言ったが、オマエ何にも知らないだろ?俺はわびなんか入れちゃいない。なぜ歴史を上書きするんだ?俺にとって
ATOKONA-Xはオマエと同じ様に特別なMCだ。今でもだ。もう死んでしまったTOKONA-Xと俺との間にどんな会話があったのか、俺は今まで誰にも
話した事はない。ただオマエが思ってるようなオチではなかった。最後、ほんの少しだけど交わされた会話は、忘れがたい、悪くねえ話だったんだ。

俺ももちろん完璧な人間じゃないから、人に忠告をもらう点は多々あると思っている。だがこれは、俺の信じるルールからは程遠いやり口だ。

なあJOE。どうしちまったんだ?オマエがこの何年、曲で、インタビューで、ウェブサイトで発してきたメッセージは一体何だったんだよ?

あれは何だったんだ?

俺は久々、この理不尽極まりない悪意に怒りを抑えられなかった。今まで1度もDISには答えた事はなかったけれど、自分の感情を抑えられなかった。
そして俺も創ったんだ。返答の曲を。5日後には出来上がっていた。あいつのDISが流れたっていう半日間、俺も俺の言い分を公開するつもりだった。
はっきり言って、冷たくも暖かい、静かで激しい、とてつもねえのが出来ちまった。それをO.N.Oちゃんと一緒に聴いた。で、二人で決めたんだ。

「やめるべ。」

二人ともほぼ同時にそう決めてた。「やめるべ。こんな事やっても意味ねえ。」YES! O.N.Oちゃん、俺もそう思ってたよ。ありがとう。

これをCDにして売る事も出来る。はっきり言っておいしいセンタリングだ。目をつぶってでも決められる。そうする事で俺等が失うモノは何1つない。
恐らく今までの俺等の曲の中で、余裕で1番売れるだろう。でもそんな金はいらねえ。あの悪意に向かって何か言ってやりたいとは思うけど、それは
俺が今、音楽で分かち合いたい事ではない。最早JOEの為なんかじゃない。自分の為だ。今まで俺が発してきたメッセージの為に、そしてそれを信じて
くれてる全ての友人達と培ってきた、繊細で、壊れやすくも、強固な信頼の為に、そして自分の、我々の美学の為に、その曲は公開しない。置いとく。

皆をワクワクさせ喜ばせる事が出来なくて申し訳ない。今後の流れで、俺の気が変わらない限り、THA BLUE HERB初の未発表音源になったって事だ。
ま、いい経験だった。ヤツが本当は何を考えてんのか知れて良かった。あと俺がまだまだストレスを爆発させてあれ程の曲を書けると知れて良かった。
想いが伝わってなかったのだけが無念だが、これもまず先に相手の心ありきの部分なんでしょうがないとしか言いようがない。悲しいがよくある話だ。
「BOSSは死んだ。」そうヤツが言ったと同じ様に、俺の中でもあいつは終わった。世の中の全ての人と同じ様に幸せになって欲しい、ただそれだけだ。
すねてもいねえし、ぐれてもいねえ。悔いもない。ただ、目が覚めた。あれだけ熱かったはずの1つの気持ちが一瞬で、完全に、跡形もなく、醒めた。

このCDをこれからマイクジャックプロダクションの所に持って行く。あいつ等には聴かせる。それでいい。それでこそのアンサーだ。それで終わりだ。
何かは伝わるだろう。

これがこの1週間、俺に起こった事、思った事だ。これは勘違いしないでもらいたいんだけど、今まで書いたのは俺から見た光景だ。これが真実だ!と
決めつけるのは、フェアなやり方じゃない。恐らく相手から見えた光景も俺のとは別に存在することだろう。それに俺は別に味方が欲しいわけでもない。

もう1度言うけど、これは俺や仲間達の尊厳、名誉、誇りに直結する問題だったから、話しただけだ。

この不況極まる、どん詰まりの音楽業界、俺等にはどうする事も出来ない位、大きな波が襲いかかってきてる。そんな大事な時に、こんな共食いじみた
愚行をやってる場合じゃない。皆が俺等を見てる。俺等の背中を見てる奴らだっている。やるべき事ははっきりと別にある。俺はそれをやっていくよ。

色々思う通りにならない事はあるけれど、仁義を忘れずに、信じ合い、ピースで行こうぜ。

ILL-B