ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) MONTHLY REPORT 2010.03

3月。暖かくなってきてる?2月も色々ありました。札幌にいたの4日しかなかった。

1月末の沖縄ライブの後、ダイとサニーさんは東京へ、俺は石垣島で1人オフってました。始めて行ったんだけど、沖縄本島、那覇とはまた
全然違った空気がゆ〜ったり流れてた。そこから船で竹富島に行ったんだけど、そこまで行くともう最果て感、出まくってて、誰もいない
道をチャリ乗って、ひたすら言葉のひらめきを待ちながらあてもなく彷徨ってました。北海道はその辺りこの冬1番の冷え込みだったらしい
けど、石垣島では半袖でも余裕で生きていくことができる暖かさ。外で寝ても死なない安心感があるかどうかは相当デカイよ。この違いは
そこに住む人間の性格にも影響及ぼすんじゃね?産まれてくる言葉や、思想、音楽にもその土地の風土は大きく関わってくる。3夜通った
渋いレゲエが聴けるバーで、泡盛にガンガン酔わされながら、いろんなことを考えていた。コの字型のバーカウンターに座っている俺等は、
現在、同じ言葉を話し、同じ国に生きているんだけど、全然違う文化や歴史の上にお互いが立脚してて。でもね、普通に同じとこで笑えるし、
共通の友人もいたりするしって感じで、札幌と石垣島の距離を遠く感じたり、距離など感じなかったり、いやはや、思慮深い数日間でした。

オフを石垣島で過ごし、そこから東京へ飛ぶ。最前線に帰還。すぐにダイと合流してスタジオに入って練習。時は2月、ライブは2本、共に
東京でした。まずは初登場、渋谷O−WEST。まずは昼間からO−WESTのビルの屋上で撮影。その後リハ。PAにサニーさん、照明に
畠中さんと、TBH、飛車角揃えの万全の布陣。この日の対バン相手であるMOUSE ON THE KEYSとも対面。自分等のリハ後
彼等のリハを見てたけど、いやあ、凄いね。音楽の世界は広いわ。気合新たに、まずは飯。チームの皆で中華喰って、再び会場入り。良い
感じでお客も入ってる。しばらくしてMOUSE ON THE KEYSの登場。タイト過ぎるドラムと、確実な鍵盤のコンビネーションが
半端ない。こんな人達もいたんだ!と不思議な喜びを俺は感じていた。さあ俺等の時間だ。やれることは1つしかない。広すぎず、狭すぎずな
箱の隅々まで言葉が届いているのが俺からはよく見えた。MOUSE ON THE KEYSを目当てに来たであろう人達、そしていつも
俺等をフォローしてくれてる人達がお互いの違いを認めた上で、かすかな共有点の上に混ざりあってるのがステージからはよく見える。誰も
帰らず、酒も取りに行かず、シリアスさが途切れることなく、最後まで同じ音楽と空気を分かち合うことができた。その日までの友人達、
その日からの友人達、皆、最後まで聴いていてくれてありがとうございました。俺等とMOUSE ON THE KEYSという一見すると
全く違うと思われがちな両者を同じ舞台に立たせたO−WESTのブッキングにもリスペクト。ワクワクがそこには1日中あった。終演後は
楽屋でしつこく飲み、上の階に行って飲み、ASIAに行って飲み、向かいのビル行って飲み、最後はたこ焼屋で飲み、100メートルの
坂の間をハシゴしまくって、なぜか俺以外は皆、関西弁という面子に囲まれ、爆笑に次ぐ爆笑に夜が更け、フラフラでホテルに帰りました。



俺は1997年にレーベルを立ち上げて、1999年に初めて地元札幌以外でライブをやらせてもらった。以来、自分等のレーベルからの
リリースと、ライブで生計を立ててる。1997年当時は沢山のHIPHOPを扱うレーベルがあった。色んな場面でそのレーベルを動かし
ている人と会うことができた。皆、情熱を等しく持って、俺等ともよく似たヴィジョンを持っていた。ただ、アーティストが自らレーベルを
動かしているっていう俺等のようなレーベルには会ったことがなかった。ってことは、まあ、これは普通のことなんだけど、そのレーベルには
レーベルを運営している人と、所属するアーティストがいるってことになる。インディーズとか自主制作とか言っておきながら、実はメジャーの
下に位置していて、そこの余りまくってる大金使って何のリスクもない運営をしていたレーベルとは違い(これは今でもたくさんある。むしろ
それらは、だから生き残ってこれた。)、ほとんどのレーベルではその運営している人が全てのリスクを背負っていた。で、そこに所属してる
アーティストってのは、大体が、その運営している人に完全に依存しているか、全て背負わせているかのどっちかで、リスクなんて知りもしない、
レーベルの将来なんて考えもしない、ただうまい話に乗っかってやろう的な奴も多かった。まあ景気も良かったから、当時は問題はなかった。
レーベルに金だけ出させて、旨い飯をスタジオに出前して、なんとそこで今になってリリックを書き始め、書けもせず、だらだらスタジオ代を
浪費して、結局何も作品ができない。で、金を払うのはいつもレーベル運営している人で、彼は本当に身を粉にして、そんなアーティストに
尽くしていた。で、肝心のアーティストは自分の作品が売れないのをレーベル側が力を入れて宣伝してくれないからだ、とかほざく。そんな
くり返しを数え切れないくらい見てきた。俺はそれを静かに見ていた。でもこう思っていた。遅かれ早かれそういうレーベルは消えていく、と。

ライブで招かれた街で、俺はその地元に根を張ってこれからを見据えている音楽家に出会ってきた。ラッパー、DJに限らず、彼等はほとんどが
他に仕事をしていて、それこそ昼間の仕事をたった今、終わらせて、そのままリハに来たって人だっていた。彼等の後に俺等がリハをやって主催して
くれた人にその街の旨い飯屋に連れてってもらう時、その地元の音楽家はついて来ない時がほとんどだった。彼等は箱に残るか、家に帰るか、
仲間と何か喰いに行くかって感じで、「あれはこの街で1番旨いんで、しっかり喰ってきてください。」なんて言ってくれる人もいた。俺は彼等と
同じ場所から出てきたラッパーだから、今も腐ってない彼等の気持ちの強さが痛いほど分かる。そして何とも言いようがない悔しさをも。
皆の声が、それぞれ届かせたい所に届くことを祈ってる。

ライブで招かれた街で、俺は俺等と同じように他から招かれて来ているラッパーに沢山会ってきた。同じ夜、同じステージと貴重な時間を分け合う
偉大なライバルってわけだ。今夜来てくれるお客、招いてくれたその街の友人達、そして上で話した地元の音楽家の気持ちに、命をかけて
自分等の表現を伝えなくてはならない。伝えることができなければ次はない。高いギャラと良い待遇はタダじゃない。俺は常に、相方のダイと
そう思ってライブに挑んできた。そのための練習を怠らず、自分等の満足を常に疑い、これでもかと1MC、1DJの限界を追求してきた。
でも、そういう俺等と同等の気概のあるMCに現場で会えたことは少なかった。いや、正確には気概はペラペラしゃべることはできても、
実際に本人が、時間と努力を支払って、その気概を表現しきっているラッパーに出会えることは滅多になかった。雑誌でよく見る奴や、昔から
有名な奴ほど、本当に雑な仕事を散らかす奴等ばかりだった。リハーサルも適当、誰もダンスフロアーに出てきて出音をチェックしない、
で、当然、声も全く聴き取れない、何を言っているのか全然伝わってこない。しかも20分か、長くても30分で息が上がって、クタクタなって
ステージを降りる。降りたら降りたで、その街の女を漁りに、タダ酒を片手に無様にうろついてる。俺はそれを静かに見ていた。でもこう思っていた。
本人は全く気付いてないけれど、遅かれ早かれそういうラッパーは喰っていけなくなる。

ここで誤解しないで欲しいのは、音楽をやりながら仕事をしている人の音楽が良くないと言っているんじゃないぜ。むしろそういう友達の方が
多い。そうじゃねえ。音楽を仕事にしているか、音楽をやりながら別に仕事をしているかは関係ない。そんなこと比べてるんじゃない。どっちにも
事情がある。この事情ってやつには、HIPHOPをやっていけば誰でもぶつかる。同じように音楽やスケート、スポーツやアートの全てにおいて、長い間
やっていく上での永遠のテーマでもある。30超えれば誰にでも選択の時期が迫ってくる。パトロン持ちやボンボンでもない限り。遊びか仕事か。
続けるかやめるか。残された時間は長くはない。俺は仕事をしながら音楽を鳴らしている人を沢山知っている。札幌にも、中野にも、横浜にも、
町田にも、豊田にも、それこそ日本中、ヒップホップにもバンドにもダンスミュージックにもいる。皆の言葉は重い。人生や生活が色濃く滲んでいるから。
そして音楽を楽しめている。締め切りに拘束されていない。音楽の本来の姿がある。俺は皆と接したり、皆の音楽を聴いたりして、時々、自分に、
いつの間にかたっぷり付いている落ちない泥を恥じたりする時すらある。だが俺も俺でいまさら引けない。俺はこうなりたくて生きてきた。

俺が言ってんのは、ここで線を引くべきは、やることやってるか、やってないかってこと。やるべきことを本当にやってきたかってこと。


ある日、キャリアも名声も手にしているベテランラッパー兼ラジオパーソナリティーがこう言ったという。「今となってはバイトしないで
喰っていけてるのはブルーハーブだけだ。」と。褒められてんのか、からかわれてんのか、負け惜しんでんのか、誰を代弁してんのか、俺には
分からなかったが、俺にも言い分があった。おいおい、笑えねえ冗談だぜ。簡単に、知った口でこの10数年を言い切ってくれんなよ。何をいまさら。
こっちからの景色はクリアだ。理由ははっきりしてる。そうなったのは、俺等が別に優れてるわけではなく、俺等の幸運でも彼等の不運でもなく、
まして時代のせいでもない。外側の問題じゃない。日本のHIPHOPの内側の疾患だ。単に、事実、もうずーっと前から、やるべきことを
怠ってきた連中の業だろ。初めから何も持ってはいなかった俺等は、ただ当たり前のことを当たり前に続けてきただけだ。10年以上も後に
なって、十分にやれたのに、それを誰もが期待していたのに、浮かれ上がってやらなかった連中の行く末と比較されても、まるで構っちゃいねえよ。
なあ、そういう奴等いたろ?やることやらずにレーベルを食い潰していった奴等、沢山いたろ?今もいるだろ?生き残ってきたあんたなら知ってるだろ?
なのに、さくっと、日本のHIPHOP総括してることに疑問が生じたってこと。もっと凄い世界なんだよ、音楽ってのはさ。知ってるっしょ?
俺等も、皆、1つの過程なの。日本のHIPHOPなんて始まったばっかりなの!

ラジオでもライブでもマイクがオンになった状態で話している以上、陰口ではなく、それによって何か波紋が生じることはお互い承知の上だ。
それぞれ長く続けてきてる。譲れねえもんも1つや2つじゃねえ。どっちも正義だが政治じゃねえ。何の因果か、そういうことが彼等とはよく起きるな。
あの日、O−WESTのステージから、ここまで長々と書いたことを伝えたかったが、俺も言葉が足りなかったし、言葉が過ぎた部分もあった。
それについては、いつか本人に伝えに行く。俺もまだまだ修行が足りねえな。でも、言いたいことはこうやって皆の前で言っていたいもんだ。

話はまだ終わってない。ただね、特定の誰かを喜ばせたいわけでもなくて、ここまで言わせてもらったついでに本音を言っておくけれど、今回の彼等の
ライムスターの新曲は熱かった。始まったばっかりだって思った。俺もあきらめないで貫こうと思わせてくれた。そう思えることになるとは思ってなかった。
その後の若いラッパー達のリミックスの繋がりも、ポジティブなものを感じさせてもらった。昔のような一種の疎外感は俺の中には全くないよ。

以上。


こっからはO−WEST後に戻ります。翌日はオフ。ったく遊びすぎたぜ。でも速攻起きて、二日酔いの中をホテル移動して、ダイと合流して
スタジオ入って翌日のライブの練習。1月、広島から続いてた2010年ライブセットの試行錯誤の旅の1つのゴールが目前に迫ってきていた。
場所は東京のホーム、リキッドルーム。対バンはご存知TURTLE ISLAND、そしてLAUGHIN’ NOSE!!!

俺にとってLAUGHIN’ NOSEっていうバンドはもの凄く特別な存在なんだ。俺の世代ではLAUGHIN’がルーツだって人は
多いと思う。ブルーハーツの前の時代やね。俺はまだ中学生の頃にその名を知って、がっつりはまって、ジャンルでいうとパンクなんだけど、
何ていうか全然悲惨じゃないっていうか、世の中をすねてないっていうか、良い意味でポップな音で、しかも凄くスタイリッシュで、とにかく
カッコ良かった!函館の外れの畑に囲まれた小さな町に住んでた俺には、ある意味ニューウェーブ。果てしなく遠い場所でキラッキラ輝く、
まだ見ぬ世界の広さと深さをも想像させてくれる希望の星のようなバンドだった。中学の友達がやってたLAUGHIN’のコピーバンドの
練習に遊びに行っては、横で口ずさみながらいつもワクワクしてた。ラジカセやコンポから鳴る音楽じゃなくて爆音で聴く音楽の最初が
LAUGHIN’だったんだ。で、俺は高校に行って、当時バンドブームのまっただ中、自分でもLAUGHIN’のコピーバンドを組んで、
函館のライブハウスで300円のチケット売ってライブやったりしてた。持ち場は当然ヴォーカル。気分はチャーミー。音楽の深さなんて
何にも知らず、気付かず、ただただ楽しい青春をLAUGHIN’の音と(SIONとも)過ごした。そんな函館の10代後半。

で、高校出て、俺は札幌行って、水商売のバイト始めて、夜遊び知って、HIPHOPを知ることになる。それが大体20歳位かな。で、
O.N.Oに出会い、ずーっとHIPHOPを聴き続け、創り始め、探し続け、いつしか仕事になった。で、今はそれで喰ってるってわけ。

HIPHOPにがっつりはまってる頃、まだラップはやってなかったけど、もうBOSSと呼ばれていた頃、まだ22,3歳だったと思うけど、
ある夜、いつものように週末は必ず行ってた当時の札幌の荒くれどもがわんさか集まってたAL’S BARって名のクラブにWACHA−LLと
遊びに行ったんだ。「あの夜だけが」の1番で歌われてる店だね。ドアを開けると歌詞と同じように既に中は、はるか彼方までお客でごった返してる。
沢山の友達と握手やハイタッチしたりしながら店の奥に差し掛かった時にWACHA−LLが言ったんだ。「あれチャーミーとポンじゃね?」
チャーミーって人はLAUGHIN’ NOSEの顔、ヴォーカル。で、ポンって人はLAUGHIN’ NOSEの不動のベーシストなんだ。
言われ、見つけ、気付くと俺はもう話しかけに行ってた。名前を恐れ多くもボスと名乗り、昔、がっつりあなた達の音楽にやられたこととかを
必死でしゃべってた。2人とも穏やかに聞いてくれてた。で、聞けば翌日ライブだと言う。金のない俺はゲストで入れてくれと頼み込んだ。彼等は
余裕でうなずいてくれた。で、俺はずうずうしくもこう頼み込んだんだ。LAUGHIN’のクラシックの1つに「I CAN’T TRUST 
A WOMAN」って曲があって、ファンなら誰でも知ってる曲で、超カッコイイんだけど、その曲ってのはベースのブレイクが曲の中に(たしか)
2回あるんだ。で、俺は、その2回目のベースのブレイクの時にステージに上げてくれ、と頼み込んだ。で、ブレイク後、一気にビートが畳み掛けて
くるタイミングでダイブするから、と。するとポンさんは笑って「ええよ。」と言ってくれたんだ。

翌日、俺はWACHA−LLと一緒にベッシーホールっていうライブハウスにいた。パンクスがモッシュしまくってる中、B−BOYは俺等
2人だけ。で、その時はやって来た。「I CAN’T TRUST A WOMAN」だ!1回目のブレイクは当然スルー、で、2回目。ビートの
濁流が一瞬止まる。そしてポンさんは叫んだ。「ボス!上がってこいや」。俺はステージに上がり、ポンさんが必殺のブレイクかまして、
俺ダイブ!そっから先はよく憶えてねえ。って言うかそのブレイクの辺りの記憶しかない。かれこれ14、5年前の話だ。

で、やって来た。2010年2月7日、リキッドルーム。あの夜、ススキノのチンピラだった俺は今、ラッパーになって、中学生からのアイドル
LAUGHIN’ NOSEと同じステージにブッキングされていた。前の日とか、リキッド行ってスタッフがLAUGHIN’のCDをかけて
ても、全部歌えてる自分に驚いていた。そして当日、俺等の隣の楽屋には「LAUGHIN’ NOSE」の文字が。まじでここにいるの?
俺は意を決して中へ入っていった。中には4人の男達が。チャーミーさんも!ポンさんもいた!うわあスゲエとか俺は思っていた。あの夜
以来、そして中学生以来の道のりの1つの到達点にすら思えた。自分が何者かを伝えた後、あの14、5年前のベッシーホールでのライブの
ことを伝えると、皆、笑ってくれた。で、「今日はよろしくです」と言って楽屋を去ろうとした時、それこそドアノブに手をかけた瞬間、
背後からメチャクチャ大きな声が聞こえた。「ボス!」「はい?」振り返った俺にポンさんは言ったんだ。「今日も飛べや!!」「はい!」

ライブは俺等が1番手。地下鉄のSEの後、幕が左右に開く。オーディエンスとの対面。帰ってきたぜ。やはりいつものリキッドとは若干空気が
違ってたな。パンクスが沢山来るであろうことは俺等も予想はしてたから、今回は硬派なセットだ。一歩も引かない50分一本勝負だった。
この日にかける思いを全て言い終わり、例によって礼を尽くし、輝けるエンディング。皆、最後まで聴いていてくれてありがとうございました。
そしてやって来たTURTLE ISLAND。観るのは去年のバスク、ボンベルニア共和国以来。相変わらず究極。ステージ狭しとメンバーが
いるんだけど、1人1人、血管の先までバンドの意志が通っているのが観ていてよく分かる。陳腐な言い方かもしれないが、マジで気持ちが
1つになってる。あれだけの人数、楽器の数と種類が混在している中で、気持ちを1つにするってのはシンクロする最低条件なのかもな。
本当に凄い。ありえない位、先に行ってると同時に不思議なデジャブ感もある。DNA単位で俺等、日本人に埋め込まれてる特別な何かに
訴えてくるグルーヴなんだよなあ。でも同時にバスクのような日本以外でも受け入れられる可能性を持っていることは、実際にこの目と耳で
俺は見届けてきた。何なんだろ、あれは。皆、世界中の人間がそこにやられて、そこで効いてる。TURTLE ISLAND、恐るべし。

TURTLE ISLANDが終わって、楽屋で皆とお疲れを分け合って、LAUGHIN’ NOSEのT−シャツに着替えて、酒を飲んで
ると、あの音が、LAUGHIN’のライブでずーっと鳴らされているあのイントロが聴こえてきた!やべっ、マジで来たっしょ!俺は愛樹と一緒に
ステージ袖に走っていった。まるで中学生のように、無邪気に飛び跳ねながら。俺等のアイドルに会いに行くんだ!って。そしてステージ
袖に着くと・・・。「PARADISE」が響いていた。もう何百回聴いたか分からない曲。舞台のLAUGHIN’ NOSEは若かった。マジで
何にも変わってなかった。愛樹と話したのを憶えてる。「何も変わってねえ。」「でも変わったことはある。俺等が知り合って、一緒に前座を
やって、こうして一緒に聴いているってことはあの頃にはなかった。」って。間違いない。時間は経っていたんだ。とてつもなく長い時間が。
北の1人の男がHIPHOPを知って、マイク持って、レコード作って、ライブしてっていう、比べれば短い時間がすっぽり入る位の長さだ。
その間もLAUGHIN’ NOSEはLAUGHIN’ NOSEそのものをずーっとキープしていたんだ。そしてやってきた、あの曲。
チャーミーがハーモニカ持った時点で、俺は「来る。」と確信していた。「I CAN’T TRUST A WOMAN」。昔よりも気のせいか
ピッチが上がったかと思わせるグルーヴ。そして2回目のブレイク。ポンさんが叫んだ。「ボス!来いや!!」俺はステージに上がっていた。
マジでタイムスリップ。14、5年前のベッシーホールと同じ曲、同じ場所、同じタイミングでダイブ!ほんっと長い間音楽を聴き続けてきた
ご褒美を与えられた気分だった。その後もう1回LAUGHIN’ ROLLのブレイク「何メンチ切ってんねんお前〜」でも愛樹と一緒に
ステージ上がって再びダイブ。この模様はツアーレポートの最後の動画に映ってます。いやーしかしこんなことって起こるんだな。最高の
時間だった。ありがたい。音楽の神様、ありがとうございました。リキッドルーム、ありがとうございました。そしてLAUGHIN’ NOSE!
あの日、皆さんの魂を燃やしてのライブに、立ち振る舞いに、後姿に、マジで多くを学びました。続けることの難しさと気高さを少しですが
知った様な気がします。俺は本当にファンなんで、あの夜も、うまく話すことが出来なかったっす。すみません。僕等も頑張ります。皆さんの
高みに少しでも近づけるよう、精進します。本当に楽しかったっす。ありがとうございました。


オンラインショップを久々開店しました。見てもらえば分かると思うけど、2008年のライジングサン限定で物販用に作ったT−シャツを
再発しました。最近ライブで着てて、問い合わせが多かったので。ちなみに経費を引いて残った売り上げは信頼できる機関を通してハイチに
全て寄付します。お金の流れも再来月辺りには、ここで明らかにできると思います。よろしくお願いします。

で、今は、ニューヨークで2週間過ごし、成田着陸、渋谷到着。明日はDJ KRUSHの20周年。そこで2曲キックするためにここにいる。

3月のライブは仙台のみ。去年のアラバキ以来。楽しもう。

健康で。

ILL−B


っていうか、これだけは書かなくてはならねえ。更新にぎりぎり間に合った。DJ KRUSHの6時間、半端なかった。6時間、テクノやハウスの
BPMでやってたら果たして何時間分を演奏したんだろう。その間のあの手数の多さ、エフェクトの種類、スクラッチの精密さ×6時間。ほんっと
すげえ人っているんだよな。いてくれて改めて救われる。謙虚でいなくてはならないって教えられる。MC陣、サポートDJ陣、皆、いい仕事をした。
そしてKRUSHさんがそれを全て受け止めて、軽く10倍で返してくれてた。それを俺は目撃した。日本のHIPHOP、マジで色々ある。良い事も
思い通りにならないこともある。同じ夜、この国のあらゆる場所で、あらゆるMC、DJ、ライター、ダンサーがそれぞれの歴史を更新していたと思う。
でもこれだけは言っておきたい。っていうか言わせてくれ。俺、今、その日、DJ KRUSHを全て聴いて、朝8時。宿帰ってきてから、未だにがっつり
酔っ払ってキーボードを打ってるけど、今夜のDJ KRUSHはマジで、半端なかった。ベスト中のベスト。これだけは残しておくわ。おやすみ。

ピース!