MESSAGE FROM BOSS

2012.1.1(#1)
明けました。

遂に、再び、ここに沈黙が明けました。

2012年、4段階目、THA BLUE HERBの再始動です。

思想は見つかり、検証され、確立され、言葉は満ち、今、俺に未来のヴィジョンを見せてくれています。


まずは2011年2月、ここで別れて、それからの話を。3月頭にTBHR第3期の打ち上げで隅田川を屋形船で下りながら盛大に祝って、すぐ後に俺の監修したコンピレーションアルバムの発売を迎え、それで第3期の俺のやるべき仕事の全ては終わった。それから・・・、本当に沢山の出来事が起こったな。
今となってはあの頃、そう、たった1年前の正月時点なんてさ、誰にとっても、何の心配も不安も実際の憂鬱も後悔も、まるで存在してなかったかのようなものだ。正月早々、深い話になるけれど、ここは決して避けては通れない。誰もが知っているだろうし、思う事はあるだろうし、
そしてそれは本当に悲しいことではあるが、それを少しずつでも乗り越えてきたからこそ、この正月はある。そしてここでの再会もある。そう思って読んでほしい。今日を経て未来に続く過酷な時代は、ここでの別れからすぐに、明確に、実際に、現実に訪れた。影響を受けていない人なんて、
今の時点でもこの国には1人もいないはずだ。ただの1人も。千年に一度と言われてるが、千年に一度なんて、つまりは起こり得ないってことだ。

だがそれは起きてしまった。

あの日、3月11日、俺は札幌にいた。前の夜はDJで朝10時頃に帰り、寝ていたけれどすぐに起こされ、それからずっとテレビの前から離れられなかった。現実とは思えない事態が延々映し出されていた。何日も何日も同じことが続いた。振り返り、ここに言葉に表してみればたった数行のことだとしても、その向こう側で実際に苦難に遭われた方々の思いは、本当に筆舌に尽くし難いことだと思う。本当に大変だったと思う。悲しく、辛く、寒く、心細く、恐ろしく・・・、今ですら、はっきりとした言葉にならない。そして福島における原発事故。この年末もテレビで数々の検証番組を観たけれど、これもこれで、文字通りどうしようもなく厄介なことが起きてしまった。俺自身、事故前から原発はいらないというか、反対というか、嫌悪感というか、とにかくNOという感情を持ってはいた。しかし、持ってはいたけれど、何も行動は起こしてこなかった。まさかこんな事故が起きるとは、そんな不安の回路を切って生活していた。甘かった。皆甘かった。この国は、我々は、越えてはならない一線を越えてしまったんだ。

その日、3月11日直後から俺の元には沢山の音楽家から一緒に何かを発していこうと誘いが沢山来た。無論、全てが善意から生まれたことである。
俺に迷いがなかったかと言われれば、迷いはあった。この国の誰も今まで遭遇したことがない事態の真っ最中で、誰もがどう行動していいか、一種のパニックになっていた、と思う。今、思えば。同じく俺も。そして俺はその時点で起きていることに投げかける言葉を、そこで、すぐには見つけられなかった、と思う。哀悼の意や励まし、怒りや疑問を全て整理することが正直、できなかった。余りにも衝撃は大きかった。テレビに映る避難所、壊滅状態の街、東電の記者会見、右往左往する国会・・・。言葉を生業に生きてきた以上、何かを発したい。無論、そう思ってはいたけれど、事実、直後の俺は、その言葉の無力さにやられてもいたんだ。行動を起こした人を、その人の勇気をあれこれ言ってるんじゃないよ。これは個人的な問題だ。
それぞれの判断に属することだ。この俺は、正義感と初期衝動と共に(何度も言うがそれを否定してるんじゃない)、離れた場所から、テレビの中の大災害を語り、且つ、実際に苦しんでいる誰かに言葉を投げかけるなんて・・・、その時の俺にはできなかったよ。できない自分を責めてすらいた。

そして同時に思っていたのは、これは数ヶ月で終わる問題ではない、一過性の悲劇ではないってこと。必ず、自分の中に言葉は降り積もる。その時は絶対に訪れる。そう思っていたんだな。実際に声を上げ、メッセージを発し、事実多くの人々に力を与えている音楽家、知り合いも含め、沢山の人が動き始めていた。そしてそれは今も続いている。札幌からも、尊敬する友人でもあるSLANGのKOちゃんが先頭に立って、東北に物資を送る活動を始めた。TBHRとしても、意思を持って農業をしている友人の力を借り、東北にお米を春先、夏、新米を秋に計3トン送らせてもらった。この支援はまだずっと手伝い続けるつもりだ。同時に、俺は沈黙した。独り、目を凝らし、耳を澄まし、考え、じっくりと言葉を探し、磨き、書き留めていった。



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